0.7センチメンタル

有毒 無益なポエムと意味の無い作り話しか出てきません

本が読みたい。できれば難しくない小説を。

苦しい。

私は活字中毒ではないけども、現実逃避をしたくなると、つらいと、本が読みたくなる。

電車では大抵本を読んだ。そうでもしないと受け止めなければならない現実から逃げ出してしまうと思っていた。

3月になるまでは本を読まないと決めた。我慢だ。苦しい現実から目をそらしすぎないようになるのだ。娯楽のためだけに生きていかないようになるのだ。

その一方で、頑張って生きたって頑張らないで生きたってつらいなら精一杯楽しんでいきて苦しい方が良い人生かもしれないと抗う気持ちもある。まだ実行には起こしていない。 私にきっと責任は必要だ。これはきっと私の人生で、私以外の人生でもある。 もしかすると本は教えてくれるかもしれないし教えてくれないかもしれない。 私が虚無のまま過ごす朝に、昼に、夜に、ふいに気づくかもしれない。

今夜もベッドで悩み踠き苦しみ死ぬ。

私を生かすのはきっとテレビだ。 テレビは偉大だ。いつも一人ぼっちで、でも一人がつらい私を一人じゃなくさせてくれるのはテレビだった。

私はスーパーアイドルに夢を見て暮らしていて、その生活は当然楽しくてしょうがないのだけれども、それは私が追いかけているからで、彼らの活動だけに限らないが、何かを追いかけて応援している人にとってそれは特別なのだ。これはこれで良いことで、私たちだけが知っていればいいこともあるし、私たち以外に知ってほしくないこともある。排他的であることは必ずしも良いことではないがそのぐらいが良い気もする。 対して、テレビはみんなに優しいのだ。 私はこれがテレビの良いところだと思っていて、テレビが見れる環境にあれば誰だって知ることができる。見ている人すべてを受け入れる。私達はそれを拒否することもできる。興味がなくたって受け入れられるのだ。

さて、私自身の話に戻るが、私は毎日帰ったら今日はこのテレビを見るために頑張ろうと自分を鼓舞する。ここ最近は特にそうなのだが、多分私が小学生の頃からこれは変わってない。それはドラマでもあるし、バラエティでもある。毎週、毎日つらくても家に帰るとテレビはいつも私をつらさから解放してくれる。私にとって1番身近な現実逃避で、私がここまでなんとか頑張ってる所以でもある。

若い人たちはテレビから離れてなんでも動画で済ます様だけど、30分なら30分、1時間なら1時間、2時間なら2時間、5分間でもいい、私を助けたのは黒くて四角いテレビそのもので、私はまだまだ離れられそうにもない。 私がいつ死んでもいいと思ってるのを立ち止まらせて笑顔にさせるのはテレビで、いつ死んでもいいと思ってるのに大声で笑っていられるほど健康にさせて死なさせないのもテレビだ。

私はまだ面白いと思うけど、世間は面白くなくなったと言って離れていく。でも続いているテレビはそれがお笑いだとしてもなんだとしてもそれ相応のかっこよさがあって、新しいテレビは因習(というと語弊があるが)に囚われない革新的な部分がある。それが痺れるのだ。だからどちらもあるのが多分正しくて面白いのだ。

これがなんなのかと言うとなんとめちゃ×2イケてるの感想だと言ったら、きっと笑われるだろうけど、とにかく今日も私はテレビに魅了されたのだ。

延命治療

今をときめくスーパーアイドルに人生を何度も救われている。

彼らが強く美しく生きている姿を見ることが1番私の希望になる。彼らは慈善事業でスーパーアイドルをしていなし、まして私もお金を払っているわけだから結局これは私が勝手にお金を払って彼らから希望を買っているわけだ。

彼らは命を削って(というと大袈裟なのかもしれないが本当のことは教えてくれないので私はそうなのかと勝手に思っている)忙しく働いている。スーパースターであるが故に、あるために、彼らがやるべき事はたくさんあって、それは結局私たち(に消費してもらう)のためである。それが私は不意に苦しくなるし、忙しくなくなって穏やかに過ごす時間があればいいなと勝手に願うがそれはもはやエゴですらなくて、私は願う反面そんなことにならないでほしいと思っているのだ。いつまでも私の前からいなくならないでと願い、輝き続けてほしいと望む。

あたりまえがあたりまえであり続けるためにすること、あたりまえじゃ退屈だからそれ以上を作り上げること、それをいつもこなし続ける彼らは世界一素敵だ。走り続ける後ろ姿をずっと見てきたから信頼してるし、応援している。そして彼らのひとつひとつに救われている。彼らがしている努力に見合った何か、私ができる何かというのは結局お金を落とすことで、でも私はそれ以上までもらっているのだ。こんな時に生きようと思う。生きなきゃ、と思う。苦しくなんかない、まだまだやれるよって画面の、紙面の、中の彼らが微笑むから思い込んでしまう。 生きたくなくなったって彼らが頑張っているから、勘違いも甚だしいけど私(たち)のためにがんばっているのだから、と泣きながらもっと頑張ることと生きることを決めた、

久々の投稿である。 最近とても調子が良いので勢いに乗って頑張って日々生きている。

いつから調子が良いかと言うと前回の投稿した水曜日の翌日木曜日からである。もはやこの高低差はネタである。木曜の夜中にはもうかなり良くなっていたので水曜日からと言っても良いかもしれない。

とても調子が良くて絶好調なのは長くても1週間後にはある程度落ち着いて努力はできるけど絶好調とは程遠い生活になるだろう。そして私はよく頑張ったとある程度自分を褒めて、憂鬱になって、また調子を良くすると繰り返すのだろう。そんなこんなで年どころか年度も明けてもう4月になっているかもしれない。

私の生きるための支えはいくつかある。 これのためにあと少し頑張ろうとか、つらい時はこれを思い出してあと少し頑張ろうとか、そんな類いのものはある。いま調子が良くて頑張れているのもこの中の1つになる。 しかし、(これは私がその日暮らしのダメ人間なだけなのだが)少し距離のある未来に関する希望やら夢やらが何も無い。私の中で支えとなるのはせいぜい3ヶ月先のことが限界だ。それもずっと支えにはならなくて3ヶ月間その気持ちが続いたことはないと思う。死ぬかもしれないし、何が起こっているか分からないそれ以上先のことなんか考えて生きることができない。 そして、これはそれに関係しているのかしていないのか私には分からないが私の原動力は基本自分のためにはおきない。この人が喜ぶなら頑張ろうとかこの人のためになるなら頑張ろうとか、この時の「この人」には私がお世話になって感謝してる人や好きな人なんかが入るが私が入らない。しかし、私は私のことを世界中で一二を争うレベルで好きだと思う。

つらい。皆こういうものなのか?そうではない気がする。自分のために頑張れない。何故かわからない。誰かえらい人はなんでなのか、どうしたらいいのか、私に教えてくれ。きっと答えはないと思うが。

生きるのがつらい。 私だって自分の感情の浮き沈みの激しさに困っている。明日突然人生最高だと思うかもしれないし、明日もこの調子かもしれない。

私は普段電車に乗るので音楽をiPhoneで聞いたりする。結構音楽が好きで、音楽に救われることも多い。

私はプレイリストをつくるのが好きでやたらとプレイリストを作る。 大好きな曲をまとめたものもあれば、センチメンタルな気持ちの時に聞くものもある。 その中に生きるのがつらい時用のプレイリストがある。 私が何年も頑張ろうと思った時に聞く曲、楽しかった光景、大好きな風景(私の場合はそれがライブにあたることも多い)が思い出せる曲、応援してくれる曲、大好きな人の大好きな曲、など雑多に一つのプレイリストに押し込まれている。

今朝はこれを聞いている。生きるのがつらい。 つらいことは日に日に増えている気がする。 私に宛てられた期待なんてほんの少しできっと普通は微動だにしないものなのだろうけど、それを背負っていることがつらい。がんばれ、と、がんばれとなるべくたくさん言われていないとやっていられない。 「がんばれ」という言葉をやすくて無責任だとよく言われるけど私はがんばれ以上に良い言葉を知らない。私は自分にさえがんばれ以上の言葉をかけられない。なにかあるならその言葉を私にかけてくれ。 つらくても「がんばれ」という無責任でやすい言葉と根性だけで力強く生きるしかないのだ。誰かに投げ出すこともできないし、誰かが不意に助けてなんかくれないのだ。

がんばれ、私。

徳を積み足りない。

もう3週間ほどだろうか。 ろくに誰かと遊ぶようなこともしていないので毎日3ヶ所をぐるぐるとまわるだけなのでそもそも積める徳があまりない。にも関わらず頼んでもないタイミングで私の意図に反して良いことばかり起こる。

良いことが起こるのは私の人生において最高のことだ。ただ、私は普通ないしああそっかと思える程度の悲しさへの耐久はあるのだ。そのくらいのことが日常で起きてくれないと肝心な時に良いことは起きない気がするし耐えられない悲しみを負うことになる気がする。

なんでも最後は神頼みだ。 私はそうやって生きてきたしこれからもそう生きるしかないのだ。非科学とか幻想だとかの話はしないでくれ。

不幸顔の女

とても良いことがあった。 普段幸せなんて一つもないみたいな顔でそこそこの幸せと不幸とともに生きているが、こんな私にも幸せなことはあるのだ。

私は多分嬉しくて嬉しくてなんだか口角だけでなく表情筋までが上がりきっていたと思う。表情筋の筋肉さえもひ弱なので表情筋を上がると言うのかは分からないが。

この良いことは私自身の良いことでもあるが、私自身の良いことではない説明は面倒な良いことなのだが、とにかく良いことなのだ。

今日のふたご座は1位だった。 いつもは見ない占いをたまたま今日は見て、1位だった。その時点で今日の1位の運は尽きたと思い込んでいた。 私はとりあえず来週まで徳積みキャンペーンを行っている。それ以上続くかもしれないし続かないかもしれない。なにかの漫画で読んだ運気を貯めるなんてことも同時に行っている。今日のふたご座は私が貯めてきた運を使ってしまったかもしれない。私も恩恵を受けた以上は使われてしまった運に文句も言えない。次も、次こそは、私のために貯めた運を使ってほしいものだ。

真っ暗闇に突き落とされてばかりだ。誰かに突き落とされたり、1人で間違えて落っこちたりする。 でも当分は大丈夫。私には光がある。